地元で愛された電気屋が再び灯りを照らす場へ
八日町・旧電気屋「ミヤハラ電器」オーナー 宮原 敏喜さん

今、大町で一番アツい場所 .BASE OMACHI(ドットベース大町)をご存知だろうか? 地元の人々からは50年余りミヤハラ電器として親しまれてきたその建物、場所は信濃大町駅前商店
どことなく硬い表情で迎えて下さったのはオーナーの宮原敏喜さん。変なことを聞いたら怒られるのではなかろうか、と頭をよぎりつつもインタビューのお願いをすると、「なんでもきいて」と快諾して下さった。
宮原さんのお父様は上田のご出身で、元は警察官として大町に赴任されてきた。戦後は保険の外交員をしていたが、昭和24年8月、宮原さんが生まれた年に電気店”ミヤハララジオ商会”を創業。 自ら東京の秋葉原まで部材を買いに行き、製造から販売まで手掛けていた。創業当時は、お隣にある布地販売店の場所に店舗があったが、その後、手狭になり現在の場所で”株式会社ミヤハラ電器”と してオープンした。

当時大町には7千~8千世帯ほどが暮らしており、そのうち7軒に1軒はお客さんとして抱えていた。 テレビ・マッサージ機など電化製品の販売から、修理、設置工事まで、いわゆる町の電気屋さんと して地元商店街で愛される店で、宮原さんも子供の頃から休みの日はよく手伝いをしていた。「木 のドラムに太いケーブル巻いたやつを引っ張ってきて、集落じゅうずっとテレビの配線やるの手 伝ったりしてたよ」

転機となったのは、宮原さんが東京の大学に在学中のこと。大学3年の12月に父が倒れたとの電話が あり、暮れに帰ると、背が高く厳しくて人から頼られる父が別人のようになっていた。その姿にショックを受け、元々学業より商売に強く興味のあった宮原さんは店を継ぐことを決意。「俺は5人 兄弟の末っ子だったけど、結局親父の血を一番濃く引いたのが俺だったんだろうね」 それから、「大きくなったら結婚しよう」と中学2年の頃に約束し、離れてからもずっとハガキや手紙でやりとりをしていた現在の奥様と27歳で結婚。店の経営は順調で、年間1億円もの売上げがあったものの、資金繰りで苦労し、店を閉めてから去年で10年になる。 建物を潰してしまって駐車場にでも、という話もあったが、鉄骨を使ったしっかりとした躯体だけに傷んだ部分を直せば十分使えるという思いもあり、そのままになっていた。
そんな中、3年前から”空き家の学校”という取り組みがスタートし、町をなんとかしようという人達 が集まり空き家の調査・研究が始まった。会議を重ねるうちに机上の理論ではなく、実践しなければだめだ!ということになり、「それならうちがあるから、やってみるか。」と場所の提供を申し出た。 19年には地域住民らでつくる団体「信濃大町まち守舎」が発足。ちょうどそのようなタイミングで、株式会社フリーフロートの代表取締役CEOの屋田翔太さんと繋がり、人が集まる拠点としてこの場所を使わせてくれないかとの打診を受けた。まち守舎と宮原さんに対して屋田さんがプレゼンを行い、それを 聞いて宮原さんは「こいつら、本気でやる気だな。」と感じたという。「自分たちで好きなようにやるならやっていいよ。」という条件で正式に契約を交 わした。
40年分の蓄積された物の片付けや掃除は、一人ではとても出来ない大変さだった。「彼らは立派だよ。寒い中もずっと壁塗ったりしてね。」
そうして、旧ミヤハラ電器はユニークな貸しスペース .BASE OMACHIとして見事に生まれ変わった。「地元の商店街の人達もほとんどみんな来てくれて、 開けてもらってよかったって言われるね。」「ここで何十年も商売やってきて、これまでのつながりがあっての今だから。シャッターを閉めてる後ろめたさ、なんとか開けたい気持ちがずっとあって。」「人の出入りが多くなれば。町に面した道にある場所だから、活用してもらえれば。」と宮原さんは言 う。

インタビューが終わる頃、ちょうど地元の高校生が自習するためにやってきた。彼女も”信濃大町まち守舎”の一員だ。宮原さんとは顔馴染みで、にこやか な表情で会話をする様子が見られた。きっとこのような温かな風景がこれからもこの場で続いていくのだろう。